福島へ各駅停車の「鎮魂」の旅
3月3日~4日と福島県川俣町に、山木屋の「わ」プロジェクトのコンサートを聴きに行きました。コンサートの模様はすでに写真を掲げてレポートしました。
往き帰りの各駅停車の旅をメモ風に書きつつ、1年を経た東日本大震災・大津波・東京電力福島第一原子力発電所の事故による被災者のみなさんへの想いを新たにしたいと思います。
* * *
東京電力福島第一原子力発電所の覚めやらない事故の渦中にある川俣町に、できるだけゆっくりとスローに入ろう。
当日は、朝4時過ぎに起きてコーヒーを淹れて目を覚まし、歩いて秦野駅に。小田急線で新宿へ。新宿から埼京線で大宮まで。大宮から宇都宮・黒磯、最後の乗り換えは郡山。福島までの直通の東北線はない。
黒磯駅を過ぎると雪景色。各駅停車の乗客の人模様。若い夫婦と女の子が、一区間だけ乗って、次の駅で降りると駅のホームを女の子が駆け出した。女の子の目線の先、小さな駅舎の外には手を振って待っているおじいちゃん、おばあちゃん。と言っても私とほぼ同世代か・・・。
部活の女子中学生たちの華やかな笑い声が車内に流れ込み、二駅目で春の嵐のように通り過ぎた。お父さんと2人で大好きな電車に乗って次から次へと質問を浴びせている男の子。当たり前の暮らし、どこにでもある日常が各駅停車の電車に流れ込む。そんな風景を見るのが好きだ。
乗客は出たり入ったり。4人掛けのボックス席にずーっと座っているのは見渡す限り私の他に2~3人だけ。ページをくくる手を休めて目を窓の外に向けるとドンドン雪が深くなってきた。中学校のころに歴史で習った白河の関。線路から程近い丘の上に雪をかぶった小さな城が見えてきた。さらに遠くには白い山並みが横たわっている。東北地方の冬景色だ。
寒冷地仕様の電車は、ドアの開閉が手動。電車に乗る時は、開のボタンを押して電車に乗り込み、車内にある閉のボタンを押してドアを閉める。降りる時は開のボタンを押してドアを開け、閉のボタンを押しながら電車を降りる。手が切れるような寒気を出来るだけ車内に入れないためだ。慣れない(?)乗客が降りるときに閉のボタンを押し忘れた。開いたままのドア近くの若者がフットワークよく席を立ってボタンを押してくれた。
福島駅まで行ってバスで川俣町に向かうか、福島の手前の松川駅で降りてバスを使うか。直前まで迷っていた。松川駅で手動のドアが開いたとき、とっさにリュックを背負って下車した。ここまで来るのに家を出てから7時間ほど。
松川駅に降り立つと、都会で何気なく使っていた「パスモ」はこの駅では使えない。インターネットで検索した川俣高校行きのバスがない。待合室にいた女子中学生に「川俣高校はどちらの方向ですか」と聞いても「分かりません・・・」と恥ずかしそうに答えるばかり。
松川駅の窓口にはカーテンが引かれ、「ただ今お昼休みです。しばらくお待ちください」の表示。駅の近くにコンビニがあった。女性店員に声をかけた。地図を見ながら、「ここまでは10分で行けます」。「歩いて10分ですか」と問えば、「いいえ、車で10分」。ていねいに教えてくれた。
コンサートの開始まで2時間。ぶらりと歩いて行くつもりが、思いのほか雪が多い。その上、溶け始めた雪で道路はぐちゃぐちゃ。雪道を歩くのは諦めたほうがよさそう。
昼休みが終わった駅の窓口でようやくパスモの清算をすませたのは30分後。幸運にも駅にはタクシーが2台客待ち。タクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手さんの住んでいた所は、東京電力第一原子力発電所の事故による放射能汚染のホットスポットだった。已む無く勤め先に近い松川町にアパートを借り上げて仮住まい。「ひとり者だからまだしも。自分は仕事があるからいいほう。大なり小なり原発の影響を受けていない人は一人もいないよ。俺たちはいいけど、子どもたちの健康が心配だ。早く元の家に帰りたいけど、無理だね」
「川俣町はかつて養蚕が盛んで絹の町として元気だった。山に囲まれた盆地のまちは夏は暑く冬は寒い。この時期の雪は春の前触れ。水っぽくてすぐに溶けてしまう」「近くにあるUFOの里に行ってみたら」運転手さんは盛んにふるさと川俣町の案内をしながら道の駅まで約20分。
「これ以上頑張ってとは言えないけど、お元気で・・・」とタクシー代を払いながら運転手さんに声をかけた。
コンサート会場の川俣町中央公民館のホワイエで、20年来の友人である神奈川在住の新聞記者にばったり出会ったのには驚いた。これも「福島」が呼び寄せてくれた縁か。
「ぼくたち わたしたちの『わ』コンサート」の山木屋小学校の子どもたちは、大人顔負けの演技と歌いっぷり。計画的避難区域から仮設住宅に移り、間借りの学校生活を送っている子どもたちとは思えないほどのパワーにあふれていた。
「山木屋は森の豊かな田舎。川俣町は都会で住みにくい。早く山木屋に帰りたいが、今は仲間がいるからここで元気に暮らしている」
コンサートを終えて、子どもたちは、地元のテレビや新聞各紙の取材にはきはきと答えていた。それにしても国・地域を挙げての復旧・復興が遅々として進んでいないのが歯がゆい。
この日は福島駅近くのビジネスホテルに一泊。夜、新聞社の取材を終えた木下さん夫妻と行きつけのバーに行く。「雪の結晶をイメージしたカクテルを・・・」「もうすぐ春、雪の間から顔を出すフキノトウのカクテルを・・・」「疲れの取れる甘いカクテルを・・・」
「福島の夜はここ」と言う木下さん。マスターはお客さんのイメージに合わせて独創的なカクテルをつくり、手づくりのテーブルに置く。想像以上のカクテルにひとしきり話がはずむ。福島の仲間3人が合流。午前1時半過ぎにホテルへ。
翌朝、地元の新聞2紙、全国紙1紙を買って、8時半過ぎの東北線の鈍行で西に向かう。窓の外は雲ひとつない青空が広がる。
ギョウザのまち宇都宮の待ち時間を利用して途中下車。駅近くのギョウザ店で味噌ラーメン・ギョウザ定食を食べる。昼時にもかかわらず誰もお客さんがいない。私が食べ終わって出るころにようやく2組のお客さん。テレビで見たことのある芸能人の写真が壁いっぱいに貼り出してあるお店なのに。
丹沢のふもとに帰りついたのは夕方5時前。会うなり、「ニンニク臭い!」と言う連れ合いの言葉に目が覚めた。
往復15~6時間の各駅停車の福島への旅。東日本大震災・大津波・原発事故による被災者の慟哭の想い、失われた命と日常、出口の見えない暮らしに想い寄せれば、比べるべくもない一瞬のできごとであった。
時はめぐり3月11日。
合掌。
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