ことばの周辺

アメリカと日本、言葉の力・民主主義の時間

麻生太郎首相の漢字の読みについて、さまざまな指摘がなされています。さっそく爆笑問題の太田光さんがテレビの番組中、「こんな省庁はいらない!」のコーナーで、麻生さんの物言いを真似ていました。例の「みぞゆうの・・・」というものです。

このような言い間違いが何を表わしているかは明らかです。指摘されている通り、麻生さんの日々の演説は、官僚が書いている原稿をそのまま読み上げているだけのようです。

最近のテレビは、クイズ番組が花盛り。漢字の読み・書きや、「お馬鹿キャラ」を売り物にした日本国中クイズだらけの状態です。そんな時代状況と符合するように一国の首相である麻生さんのデタラメな漢字の読みの頻発。これこそ未曾有の出来事ではないでしょうか。

とすると、正真正銘の未曾有の出来事であった阪神淡路大震災などの自然災害に際して、麻生首相は自ら共感を持って被災者のことを慮ったことがあるのだろうかという素朴な疑問が湧いてきます。

福田前首相の辞任表明記者会見における「私はあなたとは違うんです!」ゆずりの上から目線や、べらんめえ調の記者会見での話し振り、さらには、「私がやるんです!」という「私が、私が・・・」というスタンドプレー意識。

加えて、昨日の発言が一夜あけると豹変する「朝令暮改」。ここまでくると、一国の首相としての資質に大きな疑問を感じるのは私一人ではないと思います。

政治家の言葉が今ほど言葉本来の力を失っている時代はないのではないでしょうか。麻生首相だけではなく、この国の政治家たちは、日本語の持っている豊かな感性と力を一語一語の言葉にのせて私たちに国づくりのメッセージを届けてほしいものです。

ひるがえって、アメリカの大統領選挙で次期大統領に当選した民主党のオバマさんのことが対照的に取り上げられています。

オバマさんは、「私が・・・」という言葉を極力使わなかったといいます。「あなたは・・・」「わたしたちは・・・」という主語を多用して選挙演説の終盤、多くの選挙人の心をとらえたというのです。

”You can.” ”Yes we can.”で象徴される、言葉を発する人の立ち位置と、ものの考え方によって、これほど言葉本来の力が込められることはないでしょう。2年近い予備選挙と本選挙、民主主義にかかる時間は長いのです。大統領候補者たちはさまざまな試練を経て、自ら学習し、それぞれの「言葉力」を磨かざるを得なかったのでしょう。

8年間のブッシュ政権を選んだのも間違いなくアメリカ国民ですが、オバマさんを選ぶことで示したアメリカの民主主義の底力は認めてもよいように思います。

さて、閉塞状態の日本、政治家たちからどのような言葉が発せられ、私たちの心に届くのでしょうか。聞き耳を立てています。

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初孫の初めてのことばは何時

私にとって初孫の成長は最近の楽しみの一つです。昨年の暮れに生まれた男の子です。

同じ市内に住んでいる長女の子供です。我が連れ合いと長女は毎日のようにメールのやり取りや電話で情報交換しています。時には送られてきた写メールでその日の孫の表情を見ることもありますが、大抵は週に1度平日に、母子で我が家に遊びに来たときの孫の成長・変化にはびっくりします。

間もなく10か月になります。身体の成長や手足の動きは目覚しく、何でも口に入れて、まずは感触を確かめています。それとともに、最近はとみに声を発することが多くなりました。大人顔負けのしっかりとしたドスの聞いた声を出したり、大人の話に答えるような、ことばにはならない声を出したり。

新生児から乳児になり、さらに幼児へと成長する過程は、驚きの連続です。一番身近にいる母・父や家族がどれだけ子供に愛情を注ぎ、深く抱きしめ、ことばを掛けるかということが、子供のその後の成長に大きく影響すると言われています。

ことばを獲得し、そのことばを使って考え、意思を伝えるという人間特有の能力の基礎を今この子は獲得している只中にあるというわけです。

自分の子供のときにはどのように接していたのか30年近くも前のことで定かではないのですが、初孫を抱き、間近に顔を見ながら色んなことば掛けをしています。孫はアーとかウーとか、ことばにならない声を発します。

子供なりに大人のことばの意味を感じ取っているようにも思われます。初孫の最初のことばは、果たして何時のことになるのか。「ハハ」が先か「パパ」が先かと気をもむのは親ばかりで、私としては少し客観的に眺めることができそうです。

それにしても、ことばの本来の力が脆弱になっている現代社会。ことばは時代とともに変化するものではありますが、そのことばを使い、本づくりを通して人と社会と関わり続けたいと思います。

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「たまげた」話

今朝の「朝日新聞」朝刊に石牟礼道子さんの「夏に語る」が掲載されていました。

石牟礼さんと言えば「苦海浄土―わが水俣病」がなんといっても代表作。水俣病を起こしたチッソに対する損害賠償請求訴訟で患者側が勝ち、日本の公害問題への国や企業の対応大きな転換点となりました。

その記事の中に「魂消り(驚き)ますね」ということばが使われていました。「たまがり」とルビがふってあります。

新潟県長岡出身の私にとって、このことばは懐かしい方言です。もっとも長岡では「たまげた」と言っていました。ふるさとを離れて40年近いですから、いまこのことばが使われているかどうか分かりません。しかし、こうした方言に漢字を当ててみると、ことば本来の意味が明らかになりますね。

「たまげた」は心底びっくりした時に発したことばでした。日本のことばの底の深さを感じた「語り」でした。

同じ記事の中に「家の造り方もそうですね。・・・縁側がなくなりました」というフレーズがありました。

地域のお年寄りや子ども、近所のみんなが集まり「縁」が育まれていた場所が「縁側」でした。その縁側が日本の家屋からドンドンなくなっていった戦後は、地域のコミュニティーの崩壊の軌跡と同じではないでしょうか。

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